日本語読解力がダメな奴が英語覚えて何になるの?矛盾している
平成15年(2003年)7月にOECD(経済協力開発機構)が実施したPISA調査(生徒の学習到達度調査)の結果が、昨年12月に公表された。それによれば、わが国の子どもたちの学力は、「数学的リテラシー」、「科学的リテラシー」、「問題解決能力」の得点については、いずれも一位の国とは統計上の差がなかったが、その一方で、「読解力」の得点については、OECD平均程度まで低下している状況にあるなど、大きな課題が示された。
PISA調査は、読解の知識や技能を実生活の様々な面で直面する課題においてどの程度活用できるかを評価することを目的としており、これは現行学習指導要領がねらいとしている「生きる力」「確かな学力」と同じ方向性にある。また、学習指導要領国語では、言語の教育としての立場を重視し、特に文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め、自分の考えを持ち論理的に意見を述べる能力、目的や場面などに応じて適切に表現する能力、目的に応じて的確に読み取る能力や読書に親しむ態度を育てることが重視されており、これらはPISA型「読解力」と相通ずるものがある。
このため、文部科学省としては、今回(2003年)のPISA調査の結果の詳細な評価・分析が重要であると考え、国立教育政策研究所との協力による「PISA・TIMSS対応ワーキンググループ」(以下「ワーキンググループ」という。)を調査結果の公表後すみやかに設置し、結果分析を精力的に行ってきた。そして、本年1月には、臨時の全国都道府県・指定都市指導主事会議を開催し、結果の分析と改善の方向(中間まとめ)を示した。また、調査の結果を踏まえ、国際的に質の高い学力を目指すため、学習指導要領の見直し、全国学力調査の実施の検討、授業改善の徹底などの「学力向上の具体的戦略」を進めてきた。
特に、PISA型「読解力」については、ワーキンググループにおいてさらに詳細な分析を進めるとともに、大学の研究者、現場の教員等の協力も得ながら、PISA型「読解力」を高めていくための具体的な施策や指導の在り方についての課題分析、文章の解釈や論述の力を高める指導や読書活動の推進方策等の検討を行ってきた。今回、これらの検討結果を踏まえ、ここに「読解力向上プログラム」として取りまとめたところである。
皮肉なことにコミュニケーションが容易になって文字が旧時代に倍して飛び交うようになった昨今、読解力だけは落ち続ける一方なんだよな。
自分も笑ってられない衝撃的な話だけど、博学な祖父母の手紙が達筆すぎて読めなかったり、先祖が残した詩歌の読解が、寺に持って行って講義してもらわないと読み解けない(達筆すぎて)状態だ。
昔は、手紙を書くという非常に厄介な作業をし、あるいは花見の席に持っていった万年筆や硯と墨汁で戯れに花鳥風月を歌っていて、今よりずっと文字をアウトプットする機会は少なかったのに、その現代を生きる我々より旧時代の知性が優っている。
世界的にも産業革命以降、知能指数の平均値は2割ほど下がっているらしい。
実感する。室町~昭和初期の先祖の教養に俺負けてるもの、明らかに。
あんなに風流に花を楽しんで、海の向こうの国に驚いて気持ちを書いて残すということは多分出来ない。
同じような気持ちを持ってるかもしれないけどアウトプットする能力は落ちているし、まず彼らが残した足跡を介助なしで読むことも出来ないんだから。
こうして文明や文化が消えていくんだというのを目の当たりにして生きてきてるわけだけど、それでも読解力の低下というのは相当ひどいと思う。
まず文字が読めないから理解が出来なかった時代から、(同じ時代限定の)文字だけ読めても内容が理解できない時代まで踏み込んでしまった気がする。
ぶっちゃけ、今の日本人にとって万葉集や伊勢物語がどういう意味を持つんだろうか?
皆目内容が理解できない気がする。
その現代において、英語教育を巷間喧しく喚いているけど、俺はそんなものは何の意味もないと断言する。
まず、アニメとか漫画、ゲームを取り上げて、日本語の本を読ませて、もっと日本の今までの歴史を学ばせるべきじゃないか?
英語を覚えた、外国語を覚えたというので、外人のエリートと酒席を共にして語るだけの教養や経験にあまりに欠けているんじゃないのか。
見たところ、幼少期に本を読まずにアニメばかりを見て育った子はどこか抜けている。平たくいえば馬鹿に育っている。
ネットなんかも使わせる必要がないと思う。
まずその土壌となる心や教養をしっかり育ててから「玩具・道具」としてそれらを使わせるのが最も肝要なところだろ。
正直中学生手前くらいまでは余計なものよりは本を読ませるのがベストだよ。
その生活を通じて外国の人に簡単に説明できる程度には日本の文化や歴史を知ることが出来る。
ゲームや漫画、アニメは玩具の延長線上だし、ネットやパソコン、スマホや外国語は道具の延長線上にすぎない。
大事なのはそれを使って何をするのかというところで、道具や玩具以前にそれを使う人間自身のスペックが最も大事だ。
嘘だと思ったらSNSでも覗いてみりゃいい。低スペックな人間の呻吟の巣窟になっている。
便利な道具で何を伝えるか、文明開闢以来人間のテーマはそこに集約されている。
日本語の読み書き、それを使った建設的討論、論理的分析。
そしてそれをアウトプットするために足し引き掛け割、これを反復して徹底するのが先決。英語はその次のステップだ。
道具や玩具を中心の生活をおくることで心が鈍くなり、
次に人間として愚鈍になる。
結果的に文化や文明は衰退し家畜の時代が訪れる。
ルネッサンスや宮廷時代を越える文化や芸術を人類は生み出せたろうか?
これほど明確な物差しはあるまい。
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英語教育の改善策について検討している文部科学省の有識者会議は26日、報告書をまとめた。「アジアトップクラスの英語力育成」を目指し、小学5年生から英語を正式な教科として教えることや大学の入学試験でTOEFL(トーフル)などの外部試験を積極的に活用することを盛り込んだ。同省は報告書を受け、文科相の諮問機関「中央教育審議会」(中教審)に近く諮問される次期学習指導要領の改定論議の中で、小学校英語の授業時間数など具体化を検討。2018年度からの部分的実施を目指す。
報告書は(1)教育目標・内容の改善(2)指導と評価の改善(3)入試などの改善(4)教材の充実(5)指導体制の充実--を改革の柱に掲げた。
教育目標・内容については、現在小学5年生で始めている教科外の「外国語活動」を小学3年生から始めるよう提言。小学5年生からは英語を正式教科として導入する。教科の目標例として「初歩的な英語を聞いて話し手の意向を理解できるようにする」「アルファベットを書くことに慣れ親しむ」などを挙げた。
授業は、小学3、4年生では主に学級担任がALT(Assistant Language Teacher=外国語指導助手)と2人で指導し、5、6年生では高い英語力を持った学級担任が単独で指導する方法を示した。さらに、国が養成中の「英語教育推進リーダー」教員の指導の下、各市区町村で教員研修を実施して、指導体制を強化することが必要とした。
小学校英語の成績評価は「記述式や数値など適切な方法を検討する」とし、今後の課題とした。また、小中高校いずれも学力テストの点数だけに基づいた評価ではなく「英語を使って何ができるようになったか」といった観点からの評価への改善を求めた。
沸いてくるクソコメ、踊るクソリプ。年単位でつきまとうネットストーカー。
日本有数のネトウヨ・キチガイ・ネットトロルウォッチャーです。
主に経済・哲学・ライフハックを扱います。
コメント欄は日本有数の保守(ホモ)、ネトウヨ、ネットトロル博物館となっております。
義務教育で学び損なったらどこまで悲惨な人間に育つか?
子育て世代の貴重な見本がコメント欄に大量に所蔵されています。
文化や伝統は、その時々の生活様式に強く結びついている。
衣食住で精一杯の時代に、生活様式=しきたりから外れることは死を意味した。
しかし工業化と資本化が進めばしきたりは薄れる。「民族」という枠すらなくなりつつある。
いまは世界全体が金銭欲で支配されたいわば「銭ゲバ族」になり、そのなかでキリスト派イスラム派
ヒンドゥー派中共派と無宗教派極右派サヨク派に分かれているだけのようにみえる。
昔の貧乏人は読み書きすらできなかった。その時代の貴族は民衆を食わすという重責を負い、
食わせなければ殺される。それで感覚が研ぎ澄まされて音楽や文学という形に残ったのだろう。
教育で言語や討論のできる人間を大量生産するのが良いことかどうかは分からない。
ただ、当面人口が維持できる見通しの立っている欧米国に共通するのは、過去に革命か
それに準じる争乱に裏打ちされた「旧悪を排する仕組み」をもっていることだ。
革命を経ず民主主義が根付かない日本が真っ先に衰退しているのをみると、
日本文化を永続させたいのならば、学校教育程度の生易しいものではなく、それこそ
人口の大多数が飢え死に寸前になり役人が全員焼き討ちされるくらいの社会勉強が必要な気もする。
そのためのアベノミクスなのだろうか。
今の世代がインプット中心で何かを文章で表現させたり、その解釈することを苦手としているのは分かるんですけど、昭和初期くらいまでがよかったというのは「昔は良かった」っていうおっちゃん特有の思考も入ってないですか?
科学とかそっち面まで入れると、遥かに水準は上がってきています。
室町の頃なんて流体力学どころか、古典力学すらなかったじゃないですか。
それで不可解な現象を、魔物や祟りだとか捉えてぼやけた解釈をしていた。
そのことが表現力・想像力を養成する一因となっていた。
そんな風に僕は分析しています。
今はそういう幅が許されない時代じゃないですか。
テストだけじゃ無く、日常の生活においても。
@まる さん
でもその上がった科学力で同じ花を見て多彩な風流を歌うこともなくなり、昔の人が歌った心を読み取ることができなくなってるんだよね。
これは教養と勉強の違いを如実に表してるお話だよ。
>今はそういう幅が許されない時代じゃないですか。
そうだね。彩りが寂しい気がするね。
教養と勉強という意味では私も乖離が激しくなっていると感じます。
一つには、今現在、旧制高校時代みたいな教養主義がいわゆる上位の大学・高校の学生の中でさえほとんどないことにあると思います。
その原因は試験や就職のために勉強をやっている方が評価されやすいこと。そして、軍茶利さんがご指摘のように、余計な誘惑が多すぎることにあるでしょう。
下ネタですけど、ネットなんか弄ってるとエロ広告が一杯出てきますし、オナニーなんかに割くイマジネーションも後退している気がしますw
抜いちゃうから、実際の女性にもいかない人が増えてるとか…w
@まる さん
わかります。
ばかみたいな話なんだけど、ネットなんかない時代だと、青少年にとって女の性器がどうなってるかはものすごく謎なわけですよ。
その正体を知りたいという好奇心も猿のような性欲を後押ししていた。
今なんかスマホがあったらなんでも見れるもんね。
好奇心というつっかい棒が外れちゃってる。
>世界的にも産業革命以降、知能指数の平均値は二割ほど下がっているらしい。
これは当然、と言うか一種の詐欺のような主張なので、耳を傾けるべきではありませんよ。
当時に知能検査を受けられる児童と今のそれとは、受けている家庭的バックアップの質が根本的に違います。
お抱えの家庭教師が云々という世界の住民と、庶民が単独で争うのは無理が有るわけですね。
何だかんだで子どもの知的能力はいまだに右肩上がりですよ。
このトピックで叩かれている、児童向けエンターテイメントの変遷を見るとわかりやすいです。物凄く複雑化してるんですよ。
身体能力は流石に栄養状態が頭打ちしてると思うので、昭和後期辺りからは下がっていそうですけどねw
@迦陵頻伽 さん
てにをはが正しいだけで仰ってることがものすごく矛盾してるのには気づいてらっしゃるでしょうか?
当時は実質エリートだけの測定、今は庶民も含めた測定。
それで今の方が低く出ても、それがすなわち知能の低下を意味するものではありませんよ。
以前、学力測定テストで成績の低い子を休ませて学校の成績に下駄を履かせたニュースがありましたよね?
原理的にはアレと同じです。当時の方はそんな悪意は持ってませんでしょうが。
ロバが旅にでたところで馬になって帰ってくるわけじゃねえ。
エリートと馬鹿を分けたほうがいい。馬鹿に色々教えるだけ無駄。どうせ理解できないし。
物は知ってても馬鹿な奴が増えた気がするなあ
ネットの議論とか大体会話になってないよね
同じ日本語使う日本人と思えないくらい話通じない人いるもん
ググって知識を得ることはできても素養は得られないんだよ
IQなんて母集団に依存する数字を年代でくらべてはいけないと思う。
まぁなんのかんの進歩しても本質的にはなんもかわってないとおもうけどね。
@愛国左派 さん
教養という脳の刺激剤と知識という刺激剤、どちらが脳にとって有用だったかという話ですよ。
神秘が解明され、科学的な知識に満ち溢れた現代において、読み取る力や考える力が落ちて今こうなってるってこと。
例えば
>当時に知能検査を受けられる児童と今のそれとは、受けている家庭的バックアップの質が根本的に違います。
>お抱えの家庭教師が云々という世界の住民と、庶民が単独で争うのは無理が有るわけですね。
>何だかんだで子どもの知的能力はいまだに右肩上がりですよ。
子供の知的能力が右肩上がりで、時代を相当過ごした今は進歩している(つまり当時の学問と根本的に違う)と主張しているようですが、ではなんで右肩上がりの子供の能力が当時に劣ってるのかという部分で矛盾してるわけです。
どうしてこうなったか?
それは感じて考えて「知っている」事と、様々なデータというつぎはぎの寄せ集めの脳と知識には根本的に質の違いがあるということなんですよ。
パッチワークと一枚の布の違いがあるからあの当時の詩歌を越えることもできてないままなんです。
データを見て知ったつもりになった、考えたつもりになったことほど危険な過信はありませんよ、と。
>当時は実質エリートだけの測定、今は庶民も含めた測定。
>それで今の方が低く出ても、それがすなわち知能の低下を意味するものではありませんよ。
意図せずに書いているこの一文に表されるように、科学と教養、脳のサプリメントとして後者のほうが有能だったよねという結論にしかならないんですよ。
進歩して信じがたい隔絶を経て、先鋭化した手法で学んだ子供が当時の貴族の手習いに勝てないんですよ。
何が違うか?感じて考える力なんです。
アウトプットはむしろ現代のほうが求められていると思うんですけどね。
プレゼンや企画書含めて、それなりの仕事していれば、それなりのアウトプットは求められます。
もっとも、てにをはや論理の帰結が明らかにおかしいプレゼンもたくさんあるので、
そのアウトプットの質自体が下がっているのではないか、という議論ならわかります。
とはいっても、私も管理人も世の中の全てのアウトプットに目を通しているわけではないですし、
知能指数だけを見て語るのはやはり片手落ちだと感じます。
アウトプットしたものを吟味する能力や、インプット自体の能力(読み解く力や長文を読み続ける力)
が下がっているのではないか、という話なら私も賛成します。
軍茶利さん へ
返信ありがとうございます。
>感じて考える力
なるほどその通りですね。
どうやら数字を比べてたの私の方だったみたいですね。
うーん、でもまだ理解できないですね。
(教養というものが昔と比べて低下していると点)
軍茶利さんの言葉では納得できても、自分の中で、自分の言葉で理解がまだできないです。
それこそ私自身があまり教養に触れてこなかった、教養がないことの証なのかもしれませんけど。
昔の知能測定は裕福な家の子ども限定で、今の知能測定はダーツで選んだ普通の公立校。
昔も本人達はダーツで選んだつもりなんでしょうけど、元から就労を強いられるような多くの庶民は入っていなかった。
「全国民の」平均では優っているけど、「(広義の)貴族の」平均には届いてはいない。
それだけのことです。
どこかおかしい所有りますか?
「当時の知能測定を受けられる層」が国民の何%か知りませんが、
それを算出してそこまでの児童だけで再計算しないと、当時と現代の比較はナンセンスです。
それをすれば圧倒的な差を付けて現代が勝つでしょうね。
@愛国左派 さん
@kum@ さん
多分、簡単に計算したり、何かの操作方法を覚える能力は今のほうが上だと思うんですよ。
それは所得水準の向上とかでプレイヤーが増えたって意味で。
「感じ取る力」これが全てのインプットの質の要因だとみなした場合、四季を失い儚さを見失った社会で我々は何百年前の筆者不明の人々に負けているなと実感しませんか?
それらに根拠を求める社会になったことでそれを私は感じてしまうわけです。
「私が見ている杜若は確かに美しいがそれは世界中で美しいと言われるのだろうか」
そこに根拠を求めて来なかった彩りある美しい世界が万葉集の中に広がってるわけです。
あるいはあなたの家の客間で表装して飾っている父祖の詠み歌に現されているんじゃないかと思うんです。
自分がどう感じたかが中心の世界観の中でしか育たないものはたくさんあると思いますし、自分の世界を持つことでそれ以外の世界とのバランス感覚も生まれてくるんじゃないでしょうか。
>プレゼンや企画書含めて、それなりの仕事していれば、それなりのアウトプットは求められます。
これはアウトプットと言わないと思います。
外へ出しているという形でだけはアウトプットかもしれないけど。
@迦陵頻伽
>どこかおかしい所有りますか?
ええ。全面的に。
ほんとに本文読んでから投稿してますか?
まず出だしからなんか違うと思いますけどね。
前に子供が書いた魚の絵を見比べたときを思い出した
魚を解剖学的によく知ってるけど、釣りはしたことがない子と
魚を解剖学的に全然わからんけど、釣りが好きな子
前者はけっこう正確できれいなんだけど躍動感が感じない
後者はいい加減だけど生き生きしている
ていうのがあって。
ちょっと乱暴だけど当てはめれば前者が知識、後者が教養になるのかな?
体験のある分だけ表現豊かになる、心に響くものが生まれる。
宮崎駿の描く自然の表現なんかは本人の体験から来てるんだよね。
若手が宮崎のマネしても空気を表現できないのは生まれ育った時代も環境も違うから。
すっかり話題に乗り遅れた感ががありますが、この話を読んで思いだしたのは、金原克範氏が書いた「“子”のつく名前の女の子は頭がいい―情報社会の家族」という本です。この本は今から20年前に書かれた本で、発売当初は一部で結構話題になりました。
内容は、新書一冊分もありますし、しかも内容もそれに導くための手法もかなり斬新で独創的なので、一言で 説明できませんので、下記の書評を参考にしてください。
http://d.hatena.ne.jp/ced/20060709/1152411679
こちらは山形浩生氏の書評。
http://cruel.org/cut/cut199702.html
結論を簡潔に書くと、メディア、特にテレビを見ることで、言語化されて無い情報の感度が鈍くなり(俗に言う「KY」)、人間関係にて相手が必要と思われる情報を「察して」提供できないし、「関心ある」「好きな」情報しか集めないため、本当に必要な情報を得るための方法を知らないまま大人になってしまいます。
傲慢な言い方ですが、今の人たちって、自分たちが「何を知らない」とか「何が足らない」とかを「知らない」と思うんです。
自分の認識外のことを「認識」するなんて普通に考えてもできないと思うんですが、本来それを第三者が「察して」教えてくれたんですが、今ではその「察する」能力も衰えた上に、他人様に教えるほどの知識や教養も持ち合わせてなく、しかもたとえ「察して」「足りないものを教えてあげた」としても、肝心の受け手がそれを「理解」できず、逆に恨まれ因縁つけられる始末です。
「自己責任論」ぽくて嫌なんですが、結局、他人がどうしようが何しようが、その人が「認識」して「解決」しようと思わない限り、どうしようも無いと思うんですよ。
たとえ「幽霊が実在する」と主張しても、実際に見えたり触れたりしして「実感」しない限りそれは「存在しない」と同じであり、それと同じ理由で、本人たちが「自分は知らない」「自分は足りない」と感じない限り、「自分の知らなさ」「自分の足りなさ」はわからないと思うんです。
長々と書いてしまいましたが、自分でもこの記事に対して、このコメントでいいのか分かりませんし、このコメントがちゃんと理解されているか、正直自信が無いです。