自分で責任がとりたくない人は自殺をおすすめします。深刻になる日本人の常識離れ
「事故が起きたらどう責任を取るんだ!」
「そんな説明ではまったく納得ができない!」
「工事を一旦中止して話し合いをすべきだ」
住民たちがまくし立てる。保育園の建設をめぐって近隣住民の呼びかけに応じて、開かれた説明会で、事業者、自治体の担当者に向けて投げかけられた言葉だ。
東京都中野区若宮町、ここで保育園の新設をめぐって住民と事業者が激しく対立している。住民と保育園・中野区はたびたび話し合いの場を設けてきたが、お互い主張は平行線をたどっている。
中野区で保育園の建設に地元住民が建設中止運動をしていると言うんだけど、東京病とかさかもと未明病とでも言うべき大都会病で、一種の都会に住んでいるがゆえの精神疾患なんだろう。
常識で考えて、保育園でもなんでも良いけど、身近に何かが建つのが嫌だったらお前が土地を買えばいいだろうという話で。
葬儀屋にせよなんでも反対運動が相次ぐ昨今、そういうものがはじめから建たないようにするための日常的な活動やそれに伴う出費を惜しんでいる人は相当多い。
これとはちょっとエンティティの違う事例だけど、京都の下鴨神社の分譲マンション問題でも、地元の反対運動をしている住民の人とか、旧暦の区切りに有るイベントで神社に喜捨したり文化財の保護を行政に訴えかけたりしてたろうか?
神社の財政収支は、著名な神社なんかはそれなりに莫大なものだけど、出費がとにかくすごい。
実は俺は京都の伏見稲荷大社の講員で、今まで寄付を続けてきたけども、社殿の改築の時に費用(確か総予算が12億だったはず)を見てぶったまげたし、社務所で宮司さんに稲荷の山の維持費を聞いて腰抜かしたもんだ。
(変な国粋活動にも関わってない神道組織だし、信心して喜捨するなら伏見稲荷をおすすめする。)
確かに、歴史上重要と言っても良いような文化財が一般参拝者の見えないところにも山ほどあって、あんなのを毎年メンテナンスしたらそりゃ金なんかいくらあったって足りないだろう。
ふすまなんかでも、引手の細工費用は凝ったものは一個で5-10万円はかかる。
京の圓徳院なんかそれを金細工でやるわけで、地金の費用も合わせたら目ん玉が飛び出るような維持費がかかっているはずだ。
(女性旅行者には圓徳院の女性ならではの作りが面白いと思う。襖絵と引手の細工を楽しんで、北庭を眺めてくつろぐのは素晴らしい。)
件の住人らは多分建築計画が持ち上がるまで、それが持ち上がってその気になったら実行可能な日本の実情を知らなかったはずだ。
そして資金的に追いつめられた神社がそういう計画に首を縦に振ったあとから騒ぎ出して、金は一円も出さない。
保育園にしたって、建設を中止して話し合えというけど、それが建ったあとに子供を預けて働きたい切羽詰まった人の所得のことを考えてるんだろうか?
ヘタしたら反対してた連中だって近くて便利が良いってことで子や孫を預けたりしかねない。
大体、事故が起きた時に責任を取るのは事故の当事者じゃないんだろうか。
自分で責任を取るのがそんなに嫌だったら死んだほうが良いんじゃないか。
あの世にまで責任はめったに追いかけてこない。
世の中は毎日進歩する。都会ならそれはなおさらだ。
嫌なら東京を出て山や海に帰るが良い。実際俺は嫌だから都会に住まない。
虫の良いことばかり主張してはいけない。
迷惑をかけずに生きている人間はこの世に居ません
こうした東京病は、テレビやネットを通じて広く日本人に感染している傾向が伺えるけど、もっぱら迷惑という個人の快不快の主張が顕著な症状だ。
しかし迷惑という快不快を盾にできるなら、それは保育園側が住民に対して感じている感情も思い切り権利として主張できることになるって忘れてはいけない。
この住人の主張の中には、屋上に砂場を作る(ほんと、小さい子が可哀想。)計画に対して、「風で砂が飛んで洗濯物についたらどうするのだ」というものや「道路で自転車で子供を下ろす人がいたらどうするんだ」というものがあった。
しかし、風で飛んできた砂くらい、洗濯物をはたいたらそれでイイんじゃないか?
近隣の人の活動で砂が飛んできて、洗濯物をはたく手間が嫌なのだという神経が全く理解できない。
自転車で子供を下ろす人だってそりゃ居るに決まっている。
土地がないから砂場を屋上に作らなきゃいけない環境で、他にどうしろというのか。車で来いってことか?
こいつらはそれが事故に繋がると主張しているけど、だとしたらそれで事故が起きるような道路でスピードを出すなと言いたい。
(ここは狭いのに車が飛ばすのだと住人が説明していた。)
東京病の患者の99%は、迷惑に関して自分はかける側ではないと何故か頑なに確信している。
しかしはっきり言って世の中で他人に微塵も迷惑をかけない人間なんか居るわけがない。
例えば、東京で普通の値段で米や野菜を買って、肉魚を食うという活動。
↑の写真は能登の農村の写真で、水や自然にあふれていながら絶望的に欠けているものが一つだけある。
それは子供と若者だ。そして彼らと囲むはずだった家族の団欒を失った家作の主がそこに居る。
それはこういう連中が東京で普通の値段で飯を食って生きていくという活動のために、米作で儲ける権利を奪われているという現状の副産物以外の何者でもない。
東京に住むという事で田舎よりは良い所得で暮らす権利を得る一方で、東京病の患者は田舎者から奪うという迷惑を実際かけているわけだ。
この住人たちは、その事実に対して支払うべき代償を支払っていない。
だから東京で暮らしたほうが割が良いってことで、あの田畑の主は家族の団らんを失ったわけだ。
(日本人の所得の伸びに食い物の値段が比例しなかった結果、現在の地方間格差が発生した。食料品の値段が正比例するか、相応の補助金が出ていれば田舎でもそれなりに人が残っただろう。)
不作為によって人間は迷惑を撒き散らして生きていくし、それは常識的な受忍限度でお互い譲り合って生きていくしかない。
近所に保育園が出来ることで、この反対運動を展開する住人はどんな迷惑を受けるんだろうか?
そいつらが食い物を買い叩く行動で撒き散らした迷惑ほどは彼らの生活から奪わない気がする。
保育園のこどもが彼らの家から団欒を奪い、保育園の運営会社が彼らの所得を半減させて奈落の底に叩き落とすとでも言うのなら、まだわかるんだが。
沸いてくるクソコメ、踊るクソリプ。年単位でつきまとうネットストーカー。
日本有数のネトウヨ・キチガイ・ネットトロルウォッチャーです。
主に経済・哲学・ライフハックを扱います。
コメント欄は日本有数の保守(ホモ)、ネトウヨ、ネットトロル博物館となっております。
義務教育で学び損なったらどこまで悲惨な人間に育つか?
子育て世代の貴重な見本がコメント欄に大量に所蔵されています。
都会だと植物の扱いがぞんざいなのはかなり忍耐の限界を試されますね……
私自身まずいことがわかりきっているんで我慢しているところがありますし。
一見なんのこともない種でも、ネズミは食べるんですよ。
で、ネズミが来ればもちろん捕食者も……