佐世保事件、少女の鑑定留置決定 佐世保簡裁
朝日新聞デジタル 8月8日(金)21時23分配信
長崎県佐世保市で県立高校1年の女子生徒(15)が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された同級生の少女(16)について、佐世保簡裁が鑑定留置を認める決定をしたと8日、少女の弁護士が明らかにした。決定によると、期間は11日から11月10日までの3カ月間で、長崎地検佐世保支部は8月15日までに少女の身柄を留置先の施設に移すことになるという。
少女の刑事責任能力の有無などを調べるために同支部が請求していた。記者会見した少女の弁護士は「鑑定留置だけでは(全容は)わからない」と語った。弁護側は、精神医療の専門家から助言を受けながら接見を続けるという。
非常に重たいテーマなんだけど、殺したのが徳勝もなみなのは今現在疑う余地はないとして、松尾愛和さんを「死なせた」真犯人は俺は誰がなんと言おうが命の教育だし、「住み分け社会」だと思う。
松尾愛和さんのご遺族は自衛隊員とも弁護士とも様々ネットで噂が飛び交っているけど、概ねはっきりしていることは素性のしっかりした家庭ほど世の中の悪意を知らないってことだ。
反対に俺みたいな疑う余地のない鼻つまみ者や暴力団・警察や検察・裁判官・都会の精神科医・刑務官・金貸し・風俗業などの人は、世の中に善意というものが絶望的に通用しないいわゆる人間の屑がいること、そして学があり頭もしっかりしている素晴らしい知的人間でありながら理屈も道徳も全く通用しない生まれながらの悪がいることを「知っている」。
「人を信じましょう」「話せば分かる」「あの人だっていいところがある」これが通用しない人間は現実にいて、それがあるということを理解できてない善人に危害を加えていることを知っている。
住み分けの社会、つまり浄化された社会が暴力団の排除・住まいの都市化とともに実現した結果、そういう人種間の交流は失われていっている。
そして交流が失われた結果、昔は爺さんや婆さん、あるいは父ちゃんや母ちゃんが「おい、あそこのやつとは付き合うな」「なんぼ友達でもお前は家に入れんぞ」と言っていたあの環境は消えていった。
人種の交流が途絶え核家族化になった結果、情報の流入源と汚れ役を買って出てジャッジする人間が不在になったのだ。
認めざるをえない現実として、本当に人を殺す奴、ためらいもなく他人から金をだまし取って昂然と胸を張って生きている犯罪者がいる。
保険金のため、落とし前のため、面白半分で、あるいは青春の暴走の結果、奪い殺し犯し燃やしているのが現実なのだ。
「暴力」は嫌だろうがどうしようが厳然としてそこにある。
逃げようと思ってもそうは行かない。なぜなら逃げるのではなくて多くの場合その暴力に被害者が「接近してしまっている」からだ。
それも誠に結構な理由で親切心を発揮して。
そして時折それを確認したら追いすがってくるのも暴力の本質なのだ。
誤解しないで欲しいけど大筋で非暴力教育はいいことだと思う。
なぜなら大半の子供が持っている犯罪者や加害者になる可能性の芽を事前に摘みとることができるからだ。
子供向けには給食カレーと同じ次元でおすすめしやすいシロモノなのは疑う余地がみじんもない。
でも大人になった時にそのままなのはどうだろうか?
「あそこの子はやめといた方がいい」同じ子煩悩として奥さんや父ちゃんに情報を教えてくれていたチンピラはいま名目上会社員として一般人と交流しないように暮らしている。
物知りのお祖父ちゃんより近所のコンビニの馴染みの店員の方がフランクな時代がやってきた。
その現代において、親が子供の代わりに世の中を見て「疑って」「ジャッジする」必要性が出てきたわけだ。
浄化された社会になってまだ浅い年月しか経ってない。
不幸なことにその社会が形成されていく狭間の犠牲者に松尾さん一家はなってしまった。
上述の通り親切で手を差し伸べるために徳勝もなみに接近した結果だった。
このような善良な人々に警戒すべき悪があり、それらに対話も教育も通用しないということを知らせなければこうした事件は無くならないし、そのためには疑うための目安を誰かが提供しなければならない。
その教材が子供向け甘口カレーだけでいいのだろうか?
PTAで親が集まって辛口カレーで学習する機会だけでも設けた方がいいような気がする。
では徳勝もなみは悪なのかというとそれも違うんだぜ。
「悪魔」に取り憑かれてしまったか悪魔だったんだよ。
この線引だってかなり難しい。
年寄りみたいな経験値も馬鹿にできないものがあると思うよ。
核家族化の今、経験値を活用することが激減したってだけで。
興味深い記事。引用元も必読
一方、佐世保事件の加害少女は小学校のときに給食に農薬を混入するという事件を起こしている。教育委員会はカウンセラーを派遣したというが、そのときにどのような手当てがなされたのか、専門家たちはどのような対応をしたのか等、当時の関わった大人たちの対応も検証をされなければならないだろう。
そのうえ加害少女は精神科医のカウンセリングも受けていたという。報道によれば少女をよく知る精神科医が児童相談所に「このままでは人を殺しかねない」という相談をしていたという。高校時代には不登校になったので、中学時代の担任が頻繁にたずねていたという報道もある。
via: 「人を殺してみたかった」少年が起こした「体験」殺人事件を取材した者として、いま思うこと(藤井 誠二) – 個人 – Yahoo!ニュース
人の死に強いこだわりを持ち、人を殺すということに善悪の価値を持てず、それを抱えたままのパーソナリティの子どもはおそらく何万人に一人の割合でいる。そうした子どもたちは前兆行動を起こしてしまうこともあれば、まったく何の予兆すらないこともあるが、佐世保事件のケースは予兆現象がかなりはやい段階が発生していて、父親や教員が何らかの対応をしてきたことはこの段階でわかる。それがどうして実を結ばなかったのか、そのあたりも公開をされるべきだと思う。
何らかの適切な対処をしていれば、今回の悲惨な結果にはつながらなかったのではないかと私は残念でならない。保護者や大人が特異なパーソナリティに気付き、専門家の協力してコミニケーションの「育て直し」や「矯正」をおこなっていけば、彼や彼女たちは通常の社会のコミニケーションの中で生きることができるようになるはずだ。
佐世保では一〇年前にも小学生の女子が同級生を残忍な方法で殺害したという事件が起きている。それとの連続性を云々するメディアが目立つが勘違いも甚だしい。また、その事件を機に長崎では教育界をあげて「命の教育」をおこなってきたという。私はその内容を知らないが、それ自体は悪いことではないと思う。しかし、そういったメッセージとはあらかじめ「切断」されているパーソナリティの子どもがいることを認識すべきなのだ。
そういう認識の上に立って、きめの細かい、一人ひとりに即した「命の教育」、いや「命の大切さ」を共有できるようなコミュニケーションの中に取り込めるような取り組みが必要だった。そのためには、保護者や教員はもちろん、子どもたちを取り巻く子どもたちのきめの細かい観察と注意が不可欠だ。それが『人を殺してみたかった』を書いた私の一つの結論だったし、佐世保事件の断片的な情報を知るなかで思っていることだ。(二〇一四.八.三 記)
via: 「人を殺してみたかった」少年が起こした「体験」殺人事件を取材した者として、いま思うこと(藤井 誠二) – 個人 – Yahoo!ニュース
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義務教育で学び損なったらどこまで悲惨な人間に育つか?
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