「今でも通用する」素晴らしい教育勅語、私立進学校での採用は?
改憲議論が喧しい昨今、本丸の手前で世論を「慣らす」為なのかあれこれ言われる戦前談義。
2014年を通じて素晴らしさの再確認が進められた「教育勅語」なんてのは慣らしの最たるものと言っても良い。
では、こうした素晴らしいものを、規則に縛られた公立教育では取り入れられないと教育会議が立ち上がる一方、裁量権の大きい私立学校ではどの程度取り入れてきたのかと。
私立学校の場合は、キリスト教系ではミサや聖書の内容に触れる授業や時間だってあるのだろうし、仏教系では般若心経やら暗記するのも普通の事だし、野球で名を馳せた天理だって当然母体宗教に関連したことを学習する時間はあるわけだ。
つまりある意味でなんでも教えられる私立学校で、特に素晴らしい生徒を送り出す事に気を配っている早稲田や慶応、麻布などの中高でどの程度それを教えているのか?
実際は私立の進学校は一つも取り入れておらず、おそらく進学校じゃない学校でもほとんど全く取り入れている学校はないだろう。
教育勅語が「まともな人間」「徳の意識の高い人間」の養成に役立つのなら非行少年に悩む学校なんか真っ先に取り入れるはずが、教育の最前線でプロとして戦う教師はほとんど誰一人まじめに検討していない。
進学塾でそういう要素を取り入れる塾はあるだろうか?
これも全くない。
音頭を取っている下村博文氏は塾の経営者だったというけど、自分の塾で教育勅語を教える時間を取っていたのだろうか。
教育勅語は素晴らしいと絶賛する人々と教育勅語を知らないその子供達
下村大臣は著書『下村博文の教育立国論』(河出書房新社)で、その事実を自ら明かしている。というか、美談として自慢げに語っている。同書によると、下村大臣の長男は小学校4年のときにディスレクシア(学習障害)であることがわかったのだという。そこで、下村氏が学習障害に合った教育支援に取り組み、学習障害を差別せずに社会全体で受け止めているイギリスに着目。小学6年生からウェールズ州の全寮制の学校に入れることを決める。
その結果、長男はコンプレックスから解放され、のびのびと自分の才能を発揮できる場所を見つけ、ロンドンの美術大学(University Arts of London)に進学。今はこんな夢を語るまでになったという。「自分の考えを絵にしたい。絵なら自分を表現できるし、人に自分の考えを伝えられる。コミュニケーションもとれる。絵やイラストレーションで、とくにファッションというコンテンツに絞って、生計を立てていきたい」
via: (2ページ目)不正献金の下村文科相、日本の子どもに愛国心強制しながら息子は小学校から英国へ|LITERA/リテラ 本と雑誌の知を再発見
実際は教育勅語を推進する側に限って自分たちは教育勅語教育からは遠ざかり逃げている。
一番の推進役の下村博文文科大臣の子供はウェールズに小6から留学。
改憲草案を読んだら親子で助け合えとか色々書いていたけど、ウェールズと日本という距離を乗り越えて下村親子はどう情緒的に助け合ったんだろうか?
ウェールズの寮でホームシックにかかって孤独に苛まれるご子息に寄り添って助けたのは寮のおばちゃんだった可能性が高い気がするが。
国会議員にかぎらず、県会議員あたりからの政治家や、指導者層と言ってもいい経済状況の人の子供達は、大抵私立学校に行っている。
彼らの親なんか、教育勅語は素晴らしい、改憲しろと喧しい事例が多いわけだけど、学校の財政面においてさえ支配的な優越的地位を持っている彼らは、私立学校のカリキュラムに教育勅語を導入しろとなぜ提言しないのか。
早稲田や慶応の中高に通っている子に「教育勅語なんか習ってないだろ?」と聞いたらやはり習ってないという。
内容もいまいち知らない子が多いらしい。
雑学マニアの子が知識として図書館やネットで調べて覚えているだけ。
彼らの親は素晴らしいからみんなで学ぼうと主張するのになんで自分の子には教えないのだろうか・・・・
道徳に支配されたらバカになる人々
こうした事例から、一般的には教育勅語の推進を望んでいる多くの人々は、教育勅語なんか覚える暇があったら一流大学に合格するにふさわしい勉強を優先させていることが透けて見える。
つまり、道徳なんか一々学んでいたら知的抵抗力の低い人は馬鹿になるということを体験的に学習しているってことだ。
俺は借金に苦しんでいる人を無償サポートした経験は人の何倍もあるけど、大抵何の意味もない多重債務との戦いをいつまでもやって人生を無駄にしている人は道徳的だ。
過剰とも言える道徳に縛られて、法的に認められた出口や、相手にババ抜きのババを引かせて自分が生き残ろうという発想が自分では出来ない。
子供にしても同じことで、多くのカルト宗教で信者に出家を促し家族ごと宗教施設で囲い込もうとしているのは、生え抜きの宗教的エリートを養成することを目論んでのことだ。
創価学会にせよ統一教会にせよ、子供を集めた勉強会なんかを相当熱心にやっている。
信じられないくらい頭がイイ奴が一生を宗教に捧げている事例なんか枚挙にいとまがない。
東大を卒業して幸福の科学の事務局で安月給で働いたり、東大や京大に合格できる学力を持ちながら創価大学に進学して、彼氏も作らずに創価活動を熱心に行い幹部になった女性なんてのはいくらでも居る。
彼らがそれほど優秀な頭脳を持ちながらそういう人生を歩んでいるのは、道徳や社会的な部分での頭脳を早いうちから固定化させてしまったからだ。
つまり、考える引き出しや考えるときの俯瞰面積を確保する前に道徳という箍を過剰に植えつけることで人間はバカになる。
結果的にどう考えても人生を無駄にする宗教への就職を選ぶ東大卒が出てきたり、死ぬぐらいなら自己破産でもするか放ったらかしにすりゃよかったのに、多重債務にもみ潰されて自殺する人が出る。
私立学校で教育勅語や道徳をまじめに採用しないのは、わざわざ余計なお世話みたいなことをやらなかったところで、人間は大筋間違いのない選択をするという事実の裏打ちによるのだろうし、そんなことを教えてバカの子を量産することは出来ないと言うことだ。
何より最大の顧客である保護者がそんなことに時間を割いていたら黙ってない。
道徳は誰が学ぶものか?
封建制の時代に(徳川幕府の中期以降は若干改変されていたけど)どの君主も必ず学んでいた帝王学の根本的なものは、「君君たらずば臣臣たらず」というものだ。
他にも武家の立ち居振る舞いに関しての細かい作法、騎士道、こうした道徳論というのは世界中の封建時代の階級社会に見られるものだ。
ローマ時代にはヴィルトゥスと呼ばれ、もう一つの古代帝国の巨頭中国でもそうした統治者教育は大変盛んだった。
反対に民衆側に対してはイスラム教のシャリーアに支配されていた国々を除いて、基本的に多くの国では諸法度を除いて道徳教育というものは一般的に行われていなかった。
道徳とは何なのかをこうした歴史的事例は我々に如実に説明してくれている。
つまり道徳とは帝王学であり、統治者の学問だということだ。
もうひとつ言えば多くの庶民向け道徳というのは、社会と暮らしの共通言語であって、わざわざ学ぶ必要がないものでもあるということだ。
暗黒時代に欧州が滑り落ちた頃、庶民はキリスト教の過激な解釈に締め付けられ、道徳教育を教会を通じて厳しく躾ていた。
その時代に特徴的だったのは後の革命の動機になる魔女狩りや農奴弾圧で、この頃には帝王は徳を学ばず庶民は道徳によって締め付けられていた時代と言える。
この点で「君君たらずとも臣臣たるべし」の時代だったとも言える。
(徳川幕府の時代中盤からはこうした理論だったらしいけど、武家のモラルで幕府の屋台骨は維持されていたと言ってもいいだろう。その点欧州より江戸幕府の統治の方が優れていたということだ。)
教育勅語推進論者は大抵の場合国民の道徳を向上させるといい、素晴らしいものとして道徳を掲示する。
しかしその素晴らしい物を自分たちは学ばないし子供にも学ばせてない点で中世ヨーロッパのような暗黒思想を持っていると言っても差し支えないだろう。
素晴らしいものだから私は既に学びました、次はあなたの番ですというのなら、当然教育勅語に書いてある通りの行動を彼らは発動してなければおかしい訳で、政治資金規正法で秘書が在宅起訴された小渕議員に辞職勧告くらいは出すのだろうし、当然金の問題で疑われた大臣は辞職して禊選挙くらいやるはずだろう。
誰もやってないということは、教育勅語から何も学ばなかったのか、「道徳より大切な何か」がこの世にあるって事を知っているのか、それとも他人に学ばせたら都合がいいからそう言ってるだけかのどれかって事。
彼らの多くは小沢氏が検察に追い詰められる過程で「たとえ秘書が疑われたのでも議員本人に道義的責任と説明責任が発生する」と言っていた。
高い道徳心から発生した言葉のはずだ。
その道徳心があるのなら自分たちにも当然同じように道徳心がもたげてくるのだろう。それはいつなんだろうか?
小沢幹事長政治資金違法事件 「暴走政権」化した鳩山民主党内閣
最終変更日時 2010年1月19日
18日通常国会が開会しました。
天皇陛下をお迎えしての開会式で、陛下のお言葉を拝聴するたびに国会議員として、その責任の重さを改めて痛感し、粛然とした気持ちにさせられます。
先週末、小沢民主党幹事長の秘書を務めた現職国会議員、秘書ら3人が逮捕されました。
鳩山総理の秘書も起訴されており、総理、幹事長ともに検察当局の捜査を受けるという前代未聞の異常事態となっています。
さらに驚いたのは鳩山総理のコメントです。
続投を伝えに来た小沢幹事長に「どうぞ戦ってください」と励ました事を自ら記者に紹介しました。
検察庁は行政機関であり、その最高責任者は総理大臣たる鳩山氏です。
事情聴取を拒否している小沢氏に、その調子で頑張れ、と言っている事になるわけですから、行政府の長として失格なのは明らかです。
嗜み(たしなみ)の無い政権ですが、いよいよ基本を大きく踏み外し、日本にとって危険な「暴走政権」と化しました。
19日から始まる論戦で政権を追い詰める事が私達に課せられた使命です。
道徳で国民を白痴にしたら儲かる人たち
久礼の大正市場の田中鮮魚店の社長と話をしました。「若い人たちが漁業で働ける環境をつくりたい。月15万円の収入があれば十分」と言う。日本の漁業平均年齢は、もうすぐ70才へ…。若い人たちが夢を持って働ける職場にしなくては…と思います。
Posted by 渡邉(わたなべ)美樹 on 2013年6月1日
こうした愚民化政策に置いてもっとも重要な核心的利益というのは、貧民から富を富裕層に移転させるという部分に集約される。
戦前まで日本で一般的だった小作制度、丁稚奉公の制度なんかがわかりやすい典型例で、国民が無知だった場合、無知を土台にした貧民の選別と搾取というものが非常に効率的に行えるようになる。
丁稚奉公で人を集めて才能のあるものだけを選り分けて行くというやつだ。
日本の平均的学力の低下と派遣会社の伸張が正比例しているのも実にまっとうな現象といえる。
損得の計算を長期的に出来ない人間が増えたということになるのだろうし、わざわざ派遣で働いて再起不能になるならぶらぶらしたほうが結果的に得ということも馬鹿になれば思いつかなくなる。
教育勅語の時間に算数の時間を割り振って、もっと算数ができない馬鹿が増えれば派遣会社は笑いが止まらないだろう。
渡辺議員の投稿で言う月給15万の漁業従事者というのが、賢い人々の中から発生するかといえば発生するはずもなく、馬鹿の中からしか発生するはずないという事を想像すれば誰にでも理解できる話だ。
教育勅語を覚える暇にたし引きかけ割るを執拗に反復するような奴はそんな話に絶対に乗らない。
教育勅語を導入した時代の日本というのは、繊維や鉄の工業化にともなって、安い労働力を大量に集める必要があったことは無視できない。
江戸時代に無宿者や何もしてない遊民が相当数存在していたことを考えてみたらどうだろうか?
「おらぁそんな馬鹿なことやらねぇよ。安月給で生糸作るなら庭で大根作らぁ」という人がいたら不都合な時代だった。
勤労が別に美徳ではなかった江戸時代の常識を持ち込まれたら困る現実がそこにあった。
働かなきゃ食えない人間にとっての最終手段が労働だという至って当たり前の話が明治以降どうも理解できない国になっている。
たったそれだけのシンプルなことが理解できないのも多くの人が勤労は美徳という道徳論に縛り付けられて馬鹿になっているからだ。
多くの人は東大を出て幸福の科学に就職する奴とその点で何も変わらない。
虚像に自分の損得を無視して人生を捧げている。
「選択の自由がない人生」は美徳でも自慢でもない。
道徳の天変地異
久礼の大正市場の田中鮮魚店の社長と話をしました。「若い人たちが漁業で働ける環境をつくりたい。月15万円の収入があれば十分」と言う。日本の漁業平均年齢は、もうすぐ70才へ…。若い人たちが夢を持って働ける職場にしなくては…と思います。 http://t.co/93s3OU5e2j
— わたなべ美樹 (@watanabe_miki) 2013, 6月 1
こうした奇妙な状況の中で、江戸時代以降に日本人が直面した現実は、「支配者層が道徳から開放されてしまった」というものだ。
俺は条件付きで丁稚奉公の制度に賛成だし、徒弟制度もあってしかるべきだと思う。
この条件というのは、奉公させる側が道徳をしっかり身につけているという事に集約される。
江戸時代以前の丁稚奉公と明治以降の安い工員の一番大きな違いというのは、「保障があるか」「出口は用意されているのか」この二点だった。
江戸時代以前の丁稚奉公の場合、手代になったりすることで待遇はそれなりのものになっていたわけで、それがさらにステップアップした場合暖簾分けというシステムがあった。
どうしてもその場に合わない人は素行不良を除いてしっかり再就職先も斡旋されていた。
場合によっては婚姻まで面倒を見てもらえる。
暖簾分けというシステムなんか雇用する側の徳の最たるもので、仕入れの際の金銭的なトラブルの保証、独立資金の貸出、有利取引の斡旋、既に著名な看板の貸出と至れり尽くせりのものだ。
明治以降のそれを表面的に模倣した制度の場合、「就業期間中の寝食の保証」があっただけで、そうしたシステムの変化を理解できていなかった旧時代の思考形態の人はいいように食い物にされたといえる。
同じような道徳観念で生きている殆どの人は現在進行形で食い物にされているだろう。
道徳を持たない奉公制度を一言で言えば農奴システムというしかないのではないんだろうか。
時代の変遷の中で商道は資本の論理に置き換わり、大名や武家は支配層から降り、ニューエコノミーに支配されていった。
現在教育勅語を推進しようと掛け声をかけている多くの支配層はその点で女工を騙して使い潰してきた人達と同じようなことを目論んでいる。
その時代に起きていた顕著な事象は
・支配層が道徳的ではなくなった
・庶民が道徳を学ぶ時代になった
・旧来の家族工業や家族漁業が破壊されて、彼らの生活所得は資本家に移転した
・勤労者の出口政策は無くなった
こういうことだ。
渡辺議員の月給15万の漁業版農奴の発想はこの事象を忠実に模倣している典型例といえるだろう。
(農業でも同じことを狙っているらしい。)
月給15万の漁業に今まで年収500-2000万くらいでやっていた漁業従事者の生活は木っ端微塵に破壊されて、ワタミの寮に引っ越す事になる発想だ。
年収180万と既存の漁業従事者の所得格差は当然ワタミが吸収することになる。
女工哀史の時代と全く同じ発想でありながら、産業的国家的発展に全く役立たないあたり明治時代のニューエコノミーより相当悪質といえる。
(教育勅語で謳う家族や郷土との密接な関係も、この所得格差は完全に破壊するだろう。なぜなら必然的に出稼ぎの必要性に駆られる人が激増するからだ。)
同様の時代に為政者たちが教育勅語を口にしているのは偶然ではないし、口にされる計画の上で教育勅語が公立校に適用される一方、私立学校の名が出てこないことも時代を模倣していると言ってもいいだろう。
そして「時代の道徳」は支配者層が道徳を学んでいたかどうかにかかっていたことを過去の歴史は雄弁に語っている。
教育勅語をどう評価するか――。衆院文部科学委員会で25日、そんな議論が交わされた。下村博文文部科学相は、勅語が示す徳目について「至極真っ当。今でも十分通用する」などと持論を展開する一方、「そのまま復活する考えはない」と述べた。宮本岳志氏(共産)に対する答弁。
下村氏は、教育の理念を示す「よく忠に励みよく孝を尽くし、国中の全ての者がみな心一つにして代々美風を作り上げてきた」(現代語訳)の文言を、「日本の国柄を表している」と評価。「万一危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気を奮い一身を捧げ」(同)の部分は「わが国が危機にあった時、みんなで国を守っていこう。そういう姿勢はある意味では当たり前の話」と述べた。
一方、勅語で使われる「我が臣民」「皇室国家につくす」(同)などの表現は、「現憲法下における国民主権を考えると適切でない」などと指摘した。
教育勅語は1890年に発布。「孝行」「義勇」など12の徳目を示し、戦前の修身教育の指針とされた。下村氏は8日の記者会見で「至極まともなことが書かれていると思う。軍国主義教育の推進の象徴のように使われたのが問題だった」などと述べていた。
沸いてくるクソコメ、踊るクソリプ。年単位でつきまとうネットストーカー。
日本有数のネトウヨ・キチガイ・ネットトロルウォッチャーです。
主に経済・哲学・ライフハックを扱います。
コメント欄は日本有数の保守(ホモ)、ネトウヨ、ネットトロル博物館となっております。
義務教育で学び損なったらどこまで悲惨な人間に育つか?
子育て世代の貴重な見本がコメント欄に大量に所蔵されています。
上に逆らわず、黙々と言うことをきくというのは、安くて高品質な工業製品を世界中に売っていた時代に求められていたこと。
それは第二次大戦後の高度経済成長期も同じ。
この閉塞した日本の状況を打ち破るのには、教育勅語は逆効果になる。下剋上の混沌とした中から新しい力が生まれる。
安倍政権のやろうとしてることは、日本国の衰退を加速させるのではないか。
ただの痴呆奴隷兵士を増やしたいだけなんじゃないかしら
あの壊れたラジカセ内閣の面々は。
愛国者とは到底思えないね
道徳が統治者を制御するための物だと言っても、民主主義国家においてその統治者を選ぶのが民衆である以上民衆も道徳について無関心でいることはできない。道徳を教える教育はいらなくても、道徳について考える教育は必要だ。そのためには歴史や文学について一定以上の知識が当然必要であるが、今の教育が充分要件を満たしているとは到底言えない。「市民」を作る教育こそ長期的に見れば、日本の諸問題の根本解決につながるはずだ。
「昔の支配層には道徳があった」
なるほど、司馬遼太郎、城山三郎、彼等の描いて来た日本の指導者・産業会の草分け達(全てを肯定するつもりはありませんが)に比べて、昨今の日本を代表するリーダー達の薄っぺらさ加減の原因はこんな所にもあるんでしょうね。安っぽい「新自由主義経済」を声高に叫び、己れのみが時代を先駆けているかのごとく語り、振る舞う。
「闘わない者が戦争を煽り、徳の無い者が徳を語る」いやな世の中になってきた。因みに「小沢騒動」はでっち上げだと今でも思ってます。