揺らぐ殺意の定義、正常のラインはいずこ?
複数回記事で取り上げてきた大内万里亜も裁判が始まった様子で。
大内の罪状を合算すると、岡山の殺人事件で第一審が死刑判決が出たのと同じように死刑判決が出るリスクも高いと弁護側が判断したのか、他に弁護のしようがあるはずもなく責任能力を争うらしい。
(それ以外言えることがあるわけないよなホント。どうしょうもないだろ・・・)
ところで、竹井聖寿の事件や住田紘一にかぎらず、猟奇殺人事件で毎回思うんだけど、殺意の定義というのが一般的なものだとして、この手の猟奇殺人犯に当てはまるのだろうか。
この手の連中はものすっごくカジュアルな理由で人を殺すにいたっていて、決断や情動の部分が殺意というステップを踏んでいるのかがめちゃくちゃ疑わしくないか?
普通、一般的に言う殺意っていうのは何かのすれ違いによって憎悪をつのらせて、それも尋常じゃないくらいのストレスが爆発して「殺してやる」と他のなにもかもをかなぐり捨てる勢いで決意することを指しているよね。
ところが、こういう連中にとって殺すということの意味はぜんぜん違うことなわけで、腹減ったから魚を捌くとか、仕草が凄いムカついたから鯉とかボラに向かって竹槍を投げつけたってのと何一つ変わらない決断過程を経て殺すまで行っている。
つまり、この場合弁護側がよく言っている「殺意はなかったんです」というのは定義的には事実と同然なわけだけど、それを当てはめるやつの属性によってスライドする定義を持つ言葉を当てはめて罪を裁いてもしょうがないんじゃないかと思うわけだ。
こういう殺人事件の裁判というのは、暗に「もう社会で一緒に暮らしを維持することはできなくなった人を追放する」側面を持っていて、その危険性を測るためにもそろそろもうちょっと正直な法廷維持に努めて欲しいと思ったりする。
どういう風に綺麗事で取り繕ったところで、大内やもなみ、竹井聖寿のカムバックを社会は歓迎できないわけで、殺意というものに依存した審判や殺した人数ややったことに依存しすぎる判決はそろそろやめにするべきだろう。
こういう「違ってる人々」の頭の中の機序は、言葉の定義から常に大幅に逸脱している。
つまり殺意が有ったかなかったかを争う場合、
「死ぬかもしれないリスクが大いにある事」を何も考えずにやれるやつにとって
殺意なんかありはしなかったことになってしまう。
そこに殺意が介在しない限りそんなこと出来ない人間のロジックを当てはめたって意味がない。
名古屋大の元女子学生(21)が知人女性を殺害し、劇物の硫酸タリウムを高校の同級生らに飲ませたとして、殺人や殺人未遂などの罪に問われた事件の裁判員裁判の初公判が16日、名古屋地裁(山田耕司裁判長)であり、弁護側は「精神障害の影響で責任能力はなかった」と無罪を主張した。
元学生はタリウム事件について殺意を否認し、女性殺害は認めた。
事件当時未成年だった元学生の刑事責任能力の有無が主な争点となる。3月10日に結審し、判決は同24日の見通し。
起訴状によると、元学生は仙台市の高校に通っていた2012年5~7月、同学年の生徒2人の飲み物に硫酸タリウムを混ぜて飲ませ、傷害を負わせたほか、名大1年だった14年12月に名古屋市のアパート自室で、知人の森外茂子さん=当時(77)=を手おので殴り、マフラーで首を絞めて殺害したなどとされる。
via: 元名大生側、無罪主張=女性殺害、同級生らにタリウム―責任能力が争点・名古屋地裁 (時事通信) – Yahoo!ニュース
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